KOUMECINEMA

いちにちいっぽんシネフィルへの道

 

さいきん毎日お米を食べ続けているので、こみあげる後味がすべてお米。げっぷもおならもお米。体重がこの勢いで減って欲しいと思うものの、うまくいかないだろうこともわかっている。とはいえお腹が空かないからお米ってすごいなと思う。

今日は研修初日。社会人とは何かについて教わる。締切を守るとか、時間通りに会場につくだとか、当たり前のことができない大人になってしまったなと思う。みんなバーカとみてばかり。頭がカチカチになっていて、人前では話せないし、適当なことばかり言って、結局は何もできないのだ。日報も課題も「やっときゃなんとかなるよ」みたいなことを大声で言ってしまって、バカみたい。一つ今日良かったなと思うのは、発言をいろいろした時に、へこへこ落ち込まずに学習に持って行けたこと。しっかりとした完成度で課題を納品できるように徐々にがんばる。プレゼンテーションたるものはなにかについてもきちんと勉強をする。頑張る。メンバーのひとたちとうまいこと雑談もできたら良いなあと思う。

どちらも円満退社とはいえ、昔の職場でもラインをすぐ退会したり挨拶の手紙を出せなかったりなどで、逃げるように退社してしまった。保険証もどっちも手元に残っているし、我ながらまたまたひどいなあと思う。お手紙、頑張って書いたけど結局あいさつも全然できてないね。こういうところしっかりできないのは徐々になおしていきたい。次の職場できちんと保険証が届くのっていつなんだろう?虫歯も直せないし、本人確認ができない。つらい。ワイファイも届くだろうに辛い。

アップルに自動変換機能という邪魔な機能があって、それをようやく解除することができた。本当に邪魔で、これがあるせいでマックブックが嫌いになるところだった。よかった。

10月のメモ帳

 

これからのこと

ブログを書こう」と決めたのはいつだっただろう。このノートを作ったのが19歳のころ、なかなか続けられなくて、そのままにしていた。いろいろなコンテンツや記事を読んでいるとき、たいてい私はモヤモヤとしている。書いてもいないくせに「わたしの方がうまいもん」って思っていたり、あまりのうまさにため息が出たり、「こんな素敵な媒体で書ける人になりたい」とジリジリとしてみたり。

とはいえ、わたしには偉そうなことを言えるほどの経験がない。仕事や学校で書くことはたびたびあるけれど、ブログを人に見せたり、日記をしたため続けたことすらない。読んだ本の冊数もバカみたいに少ないと思う。だから、「なんとなく文章が好きだ」というだけでここまで生きてきた。メモや呟きならなんとでも書けるのに、原稿だと思うと、かしこまってがちがちになってしまう。「何を書けばいいのか」がわからなくなってしまうからだ。ブログを書くにあたっても、これはたいへん悩んだ。文章もすき、映画もすき、本もすきだし、部屋のことも文房具のことも、暮らしのことも書きたい。好きな音楽のはなしもしたい。定まらないとだめかなあ?なんてところまでたくさん考えた。

そして、悩んだ末にひとつ決めたこと。夜眠る前、髪の毛が湿っている時間に、ひとつ文章をかならず書いてみること。しっかり早寝すことと、日中は忘れてひたすらに生きることもきめた。上手くなくてもいいんだ。とにかく書いてみよう。そうして、自分らしさをみつけていこう。そして、書き続けて落ち込んだときは、何度も言い聞かせよう。だってここは下書きの場。まっすぐ前を見て。きっと振り返るころにはすべて素敵な宝物になっているはずだから

「まずはじめにブルーがいる」初めて柴田元幸さん訳P.オースターの小説を買った。書き出しから面白く、ついメモ帳アプリで模写をした。

柴田さんとの出会いはオザケン村上春樹さんだった。それとは別にMONKEYを見ていたので、知識がつながったときの感動は格別だった。今でも印象に残っている。

3人に共通するのは、ことばのアウトプットとアメリカ文学。今思えば、彼らのもつ文体に、同じ時期に出会ったのは何かの縁だったのだと思う。

 

最近よく考えるのは、知的好奇心とはどこにあり、どこのはけ口に出していけばよいのだろうか。ということ。大学に行きたいと仕事を燻っているのは、時間の浪費なのか将来への投資なのかということ。この迷いが出てきたのは「思考の整理学」を読み始めたからでもある。

文章の才能を磨きたい、世界中の本を読めるようになりたい、あわよくば勉学で評価されたい。動機はこれだけで十分であるはずなのに、肝心のところでひよってしまう。お金のことだったり、仕事のことだったり、原稿のことであったり。こうして雑記を重ねていくことに、果たしてどれほどの意味を持っているのだろう。